仙台整体コラム|怪力乱神を語らずvol.1|はじめに1
2017年12月12日
「知識と経験」とはどちらが欠けても意味があまり無いと常々思っています。
このコラムのタイトルである「怪力乱神を語らず」とは孔子の言葉です。
国を治めるに実証が不可能な力、実現可能性が低い力や特殊な力または人間の手に余る不可思議な現象や妖力のようなものに頼ろうとしてそれについて延々と論じても意味がないという程度の意味です。
似たようなことを考えた人は他にもいまして、ドイツのオルタナティブ哲学者ニーチェも怪力乱神ばかりを語る人のことを「背後世界論者」として批判しています。
この言葉は私の座右とも言えるものです。
キリストがいうように人はパンのみで生きている訳ではありませんが、パンもないと生きていけません。飢えている人には神の言葉も必要ですが、現実的な救済も同じように必要です。
人間が人間であるために、そして生を肯定するためにはパンと神の言葉、両方ともに不可欠なものなのです。ここで私は知識と経験という対比を良く用いるのですが、どちらを切り捨てても人はおかしなことになります。
経験の無い知識は空論に陥り易いものですが、知識の無い経験の方がよほど人の思考を狭め、思い込みと思考停止に誘います。知識は常にブラッシュアップされる機会が用意されていますが、経験にはそれがあまり無いのです。そして、人間は経験を絶対化しがちな動物であるのでちっぽけな自分のいっときの経験から得た感覚に固執します。
一人の人間の生涯なんて本当に短い。そして、苦闘の人類史に比べたら、一人の人間が実際に経験できることなんてそんなに多くありません。
しかし巷の経験主義者はそれを忘れてしまいます。知識がないからです。トートロジーめいた言辞になってしまいますが、結局のところ知識がないと己の経験を相対化することができないので、自分のちっぽけな経験の殻に閉じこもる傾向が強くなるのです。
そこで彼らから絞り出される言葉は「想像力」です。「知識は想像力の障害」だという印象を持つ人は少なくありません。この印象は多分に「想像力」と「創造力」を混同しているところがあると思いますが、それでも大した違いはありません。「知識」と「想像力」ないし「創造力」を「対立する項目」だと考えてしまうところに根本的な間違いがあるからです。
想像力にせよ創造力にせよ、その骨格をなすものは知識に他なりません。想像力の翼は知識という骨格なくしては羽ばたかせることが出来ないのです。
さて、まるで知識と経験を対立する項目のように扱っていましたが、現代の我々にとっては厳密にはそれも少し間違っているのかもしれません。 我々にとって知識も経験も「脳」を中心として蓄積されるという誤謬があるからです。
江戸時代から「脳化」してきた?
解剖学者の養老孟司氏は日本人は江戸時代を通じて「脳化」してきたと言います。
ここで言う「脳化」とは「身体を忘れてきた」ということです。世界を認識する上で、身体的な感覚から思考を組み立てるのではなくて、全てに脳が先行する。日本人は江戸期を通じて徹底的に脳化の歴史を辿ってきたわけです。この考えは後の近代的な大脳中心主義とも似たものですが、私は明治以降の現象であると漠然と思っていました。しかし、氏は明治維新は制度的なフィルターに過ぎないと言います。御一新による近代化で脳化したわけでは無い、と。明治とは「江戸」が維新というフィルターで濾されただけのものという発想でした。その指摘を受けて見返してみれば、確かに写楽、国吉、芳年の浮世絵を見ても、その発想は明らかに脳髄から見た身体を遊んでいるといった風で、むしろモダンさを感じます。また日本独特の「すい」「つう」「いき」といった美学にも身体の脳的な捉え返しの妙を感じてしまいます。
「心意気」が身体所作を作るという発想は確かに脳化と言えるかもしれません。
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