伊東整体理論とは(概論)

伊東整体理論

近代的身体の在り方を相対化し人間本来の生命力を取り戻す【総合整体治療理論】

身体から心をノックする整体

「生きている」ということ

身体について「生きている」ということは一体どういうことでしょう。

よくある悩みに「我々はなぜ生きているのか」というものがあります。

その問いは人間が知恵を持ってから永らく我々とともにある古典的な問いかけであり、おそらくそれはこれからもずっと続く永遠の命題です。

しかし、ここではまずそれは措きましょう。

その前に問いの前提となる「生きているということ」とは何かについて考えてみます。

「生きている」ということと「死んでいる」ということの違いはどこにあるのでしょうか。

このシンプルな問いかけに対して人はなかなかすっきりと答えることができません。

とりわけ近代人である我々はシンプルな問いかけであればある程、その問いかけの裏側に哲学的な懊悩や、神秘的な期待を”勝手に”込めてしまいます。

なぜそうなってしまうのでしょうか。

実は、我々近代人は「身体と心を分けて考えてしまう癖」を持っています。

発達した前頭葉によって「身体あってこその人間」という根本的な事実を忘れがちになってしまうからです。

この問いに関する答えは実はとても簡単です。

「生きていること」というのは「動いている」ということです。

生物は「常に動いている」のです。

死を迎えるその時まで絶え間なく動いています。

生物にとって「死」とはすべてが止まった状態ということになります。

なんと単純なことか。

不断の動き

「生きていること」とは「不断の動き」です。

寝ている時も、昏睡している時も常に身体の中の細胞は体液を交換し、分裂を続けています。

さながら流れる川のごとくに動き続けています。

その流れは生きている限り一分一秒たりとも止まりません。我々は常に進化し続けており、厳密に言えば1秒後の自分は1秒前とは違う自分です。

生きていることとは一瞬の連続です。

我々近代人には「今を生きる」という言葉が時に新鮮に聞こえることがあります。

しかしそんなことは考えるまでも無く、すべての生きとし生ける者が当然に成し遂げていることなのです。

「近代的な思考」という、ある種の倒錯した思考の壁に阻まれた我々はこの言葉を「発明」した気になっていますが、実は遠回りした挙句の「再発見」にすぎないのです。

近代的思考法のドグマ

「心(もしくは思考)」と「身体」を分けて考えることに慣れてしまった人間は、その思考において、身体というものを一段低いところに起きがちになります。

身体とは思考の付属物であり、作られる物として存在しています。

身体に思考は無く、無秩序で「支配されるもの」と考えています。

ですから「心と身体はひとつ」という言葉があまり科学的では無いように聞こえたり、少し現実から離れたことのように聞こえたりします。

そこに現実的ではないオカルトや神秘主義の匂いを感じたりします。

または科学的な思考を停止した現実逃避に聞こえたりもするでしょう。

反理性主義や本能第一主義といった、時に人間の社会的な営みを害するような思想にも聞こえたりします。

しかし、その感覚が実は「近代的思考のドグマ」ともいうべきものなのです。

身体も実は「思考」しているのです。

心と身体とはそれぞれに「思考」しており、もともと別れて存在していません。

我々人間の生の全体とは身体的な思考を抜きにして考えられるはずがないのです。

このドグマのもとでは思考を実現する唯一の器官として「頭脳」というものを規定しています。

頭脳は他の身体とは一段違うものだと考えています。

しかし、そのような身体理解は心と身体を整えるという営みにおいては、一時的な症状の寛解や痛みのごまかしといった、対症療法的な方法しか生み出すことはありません。

近代的思考を相対化する

身体と心は分けて考えられるものではありません。

我々は身体の声をもっと聞かなければなりません。

しかし、それは必ずしも近代的な思考を「否定」するということではありません。

実はそれは現実的に不可能だと考えています。

我々はすでに生まれついての近代人なのです。

あらかじめ近代的な世界観が骨身に沁みています。実は身体の所作すら近代化されています。

「機会あれば必ず機事あり」と言います。

これは無かった昔には戻れないということです。

いくら「脱近代」を試みても、その試み自体が近代的な方法で行われているわけです。

この小文で伝えようとする発想もまったくもって近代的な思考の営みによって導かれているわけですから仕方ありません。

これは世界観の壁です。

我々の思考そのものが一つの世界観の象徴となるわけです。

しかし、ここで不可能を嘆いていても仕方ありません。

我々がひとまず目指すべき処方を挙げましょう。それは「相対化」するという所作です。

「相対化」とは、その思考の本質を知るということです。これはその世界観の限界を知ることでもあります。

そして近代的な思考法が陥りやすい罠を知ることでもあります。

我々の思考法の内包を冷静に相対化することによって、分離してしまった身体と心を整える方法を模索することができるはずです。

大切なことは「否定」しないこと

実は近代主義と思考法を「否定」する必要は無いのです。

それは我々の存在そのものを否定することに繋がるからです。

そういった思考法自体が近代的人間が陥りがちな落とし穴です。

巷にはびこる安易なスピリチュアリズム、神秘主義、カルトなどがその一例として挙げられるでしょう。

近代の相対化という知的作業を経ずに、そしてその相対化するという思考を経ずに行われた刹那的かつ虚無的な近代の超克は実際のところ、我々の抱える病からの逃避に過ぎません。

そういった安易な逃避衝動に身を任せることは、実は自由な魂や身体からの逃避に他ならないことなのです。

哲学を学んだことのない整体師、それはとりもなおさず「近代の相対化」という意味も考えたことのない治療家全般のことですが、彼らが人間の身体や心の不条理さに悩んだ挙句に神秘主義的なことを言い出したりするのは、この種の逃避の典型例であると云えます。

それはオウム真理教の若者達とさほど変わらないメンタリティであり、実は心と身体の声を聞くという「整体」の根本的な目標からどんどん離れていくことなのです。

そういった行為そのものが近代的な思考の罠です。

その思考から抜け出そうとしてどんどん落とし穴に嵌っていく行為なのです。

人間とは弱いもので(ニーチェという哲学者はその弱さのことを”ニヒリスム”と言いましたが)たかが200年ほどの世界観をこの世のすべての真理であるとする思考によって、他のすべての世界観を「否定」してしまうというドグマに囚われてしまいます。

先述の治療家達は近代を否定し、新たな世界観を手に入れたと思い込んでまんまとそのドグマの補強をしているのです。

近代主義的な世界観は「それまでの世界観を全否定する」という世界観でもあります。

世界観とは本質としてそういったものですが、近代主義のそれは非常に強固なものがあります。

近代的な世界観とは極めて精緻で優れたものだと思いますが、決して「真理」ではありません。

人間の生の一部分を精緻に映し出し、救い出しましたが、決して「生の全体」を捉えているわけではありません。

自ずからそこには限界があるのです。

我々は、その限界を知りながら近代的な思考法をドグマにすることを避ける必要があります。

そこから目を背けてオカルトまがいの整体論、神秘主義まがいの整体論を語る治療家に人の身体を整えることが果たして出来るでしょうか。

身体の声に耳を澄ませる

身体の側から心と脳をノックする

我々の肉体は決して脳の従属物ではありません。

それは相互に連携を取りながら人間という生命体を作り上げています。

数値主義、大脳中心主義では補足することが出来ない愁訴も必ず身体はサインを出しています。

心の不安、障害なども、必ず身体は痕跡を残し、原因を教えてくれています。

古今東西の様々な療術は、実はそのサインを体系化したものと言って良いのです。

陰陽五行説はもちろんその代表格ですが、ヨーガなどの操体法、呼吸法もそうです。

易筋洗髄堂伊東鍼灸整骨院は身体の側から心をノックする整体を行います。

伊東整体理論の根本とはまさしくここにあります。脳も肉体の一つです。

脳も内臓の一つと考えて様々な理論を駆使します。

近代主義も西洋医学も否定しません。ただ「相対化してその果実を利用」します。

その為の勉強、知識の蓄積、理解、応用を日々行っています。

神秘主義の誘惑にも負けません。

この世界は不思議なことがたくさん起こりますが、全てを目に見えない世界で説明しようとする背面世界論者にはなりません。

そういうドグマに囚われずに柔軟に利用します。我々の世界は我々の中にあります。

幸せも不幸せも種は私たちの中に存在しているのです。

体の歪みを構造的に、論理的に、そして様々な視点、世界観から考察する。

必ず原因があります。

そこをきちんと汲み取るのが本当の治療であると伊東鍼灸整骨院は考えています。

伊東整体理論とは全人的な総合医学なのです。

全人的な総合医学

患者さんが心の底から笑顔になれる治療院、人生が変わる治療院、一番辛い時に寄り添える治療院を目指しています。