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解説付き週刊連載「身体構造力〜日本人のからだと思考の関係論〜」❾ 第1章「身体と構造の力」の7 「構造の歪みと性格 めまいに悩む少年」

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解説付き週刊連載「身体構造力〜日本人のからだと思考の関係論〜」❾ 第1章「身体と構造の力」の7 「構造の歪みと性格 めまいに悩む少年」

解説付き週刊連載「身体構造力〜日本人のからだと思考の関係論〜」❾ 第1章「身体と構造の力」の7 「構造の歪みと性格 めまいに悩む少年」

2025/10/14

構造の歪みと性格

めまいに悩む少年

 

私はめまいに悩まされる子供でした。それは小学校2年生に上がったあたりから始まったと思います。調子が悪いとちょっとした衝撃でも目が回ります。でんぐり返しなどもってのほかで、体育の時間が苦痛だったものです。走ったり歩いたりの最中は大丈夫ですが、その後に座ったりした際に世界が揺れる感覚に襲われます。家に帰り着いて椅子に座り、ホッと一息つくと世界が回ります。ご飯を食べ始めると世界が揺れます。そのめまいは聴覚とも連動しており、特に響く音が苦手でした。お寺の鐘の音などを近くで聴くと視界が歪んだものです。ぐわ

んぐわんと後を引く音がいつまでも耳の底から離れず、それが収まるまで安心できませんでした。大学で声楽科だった母は家でピアノ教室を開いていましたが、教室の時間になると、とりわけ低音の響きに世界が歪み、話し声や自分の足音が筐きょう体たいに響く音にも不安になり、耳を塞いで逃げ回っていたものです。

しかしレコードやラジオ、テレビから流れるピアノは平気だったのですから不思議なものです。それは聴覚だけではなく、視覚でも起こりました。視界に揺れるものがあると目を奪われてしまい、途端にめまいが始まりそうで常に心が穏やかではありませんでした。内科、耳鼻科、歯科、様々な場所でも特段異常が見つかることはありませんでした。情緒的な問題もあったでしょう。その頃始めた柔道なども〝普通にしていてもめまいに襲われている子供〟にとってはまさに煉獄で、前回り受け身などを強制されるのが苦痛で辞めざるを得ませんでした。そうした日常を過ごすうち、小学校の中学年の頃になると残尿の恐れに過敏になり、なかなか寝付けないようになりました。トイレに何度も行きますが、当然出ません。ただ尿意がある気がするのです。また、家の階段の段数を夜中に何度も数え直したり、トイレのドアが閉まっているかを何度も確認しなければ気が済まない〝強迫神経症的な症状〟も出てきました。全ては「めまい」に対する恐怖が根底にあったのだと思いますが、軽い発達障害的なものもあったのかもしれません。中耳炎にかかりやすかったということもあって耳鼻科などには頻回に行くようになったので、その都度訴えましたが、やはり納得のいく話は聞くことができませんでした。考えてみると、現代ならば心療内科に回されたことでしょう。もしそうなっていたら今の私はおそらくありません。考えるだけでも恐ろしい話です。その後、身体の成長や情緒の安定、そして、何とか続けていた少林寺拳法の成果もあったのか、多少は落ち着きましたが、抜本的な症状は治まることがないまま小学校の高学年になりました。その頃になると私の中に密かな想いが生まれるようになります。

「実は私はなんらかの罰を受けているのではないか」

身体的な悩みは自罰の傾向を生みます。読書の楽しみを覚えた私はその頃ギリシャ神話に触れたので、そういった発想が芽生えたのかもしれません。そこで語られているのは人間の勇気や力はもちろんですが、主には弱さと人間の性、そして運命の数奇といったものです。一筋縄ではいかない人間の存在とその人生に対する教えがちりばめられているのですが、欲深い人間の罪とそれによって与えられる罰はとりわけ印象深いものがあります。

 

ギリシャ神話の罪と罰

ギリシャ神話といえば思い浮かぶのは『シーシュポスの神話』です。アルベール・カミュの小説で有名ですが、カミュはシーシュポスの行動に人間の裡にある不条理の象徴を見たのでした。自分の行動の結果が破滅であると明白に予想ができるにもかかわらず、それに気づかないか、気づかないふりをしてしまう。人間とは時に自分の本当に求めるものから知らぬ間に遠ざかっていくことがあります。それは精神においても肉体においてもいえることです。一種、バランスを欠いてしまっている人間達の姿がそこにはあります。神々との約束を破ったシーシュポスは永劫の罰を受けることになるのですが、この物語が私たちにとって印象的なのは、罰を受けるに至る過程よりも、むしろその「罰そのもの」でしょう。シーシュポスは、岩を丘の頂まで運び上げる作業を延々と繰り返しますが、必ず頂の寸前で重さを増す岩は坂を転げ落ちていきます。しかしシーシュポスは諦めません。転げ落ちていく岩を冷笑さえ浮かべながら見つめます。彼はその苦行を繰り返しながらも、いつかゼウスに一泡吹かせようと思っている魂の力があります。オリジナルとはいえないまでも仏教的な考え方の洗礼を受けた日本人である私にとっては、その〝執着〟こそが刑罰そのものなのかもしれないとさえ思えてしまいます。しかし、その執着は岩を押し上げる原動力であり、それはそれで一つの生きる力なのかもしれません。そもそもシーシュポスの罪とは、諸説あるようですが美的快楽に溺れて、「三日だけ地上に戻そう」という神との約束を破ったことでした。この話では肉体的快楽に対する執着と精神性のバランスの悪さがそのまま罰になります。この「果てなき徒労」は、どこかで己が己に科している刑罰であるのです。ギリシャ神話には様々な人間の不安と欲望と挫折が登場します。そこにおける罪と罰には、精神と身体の密接な関わりを感じさせるものが多く見られます。リューディアの王であったタンタロスは神々と親しく交わる人間でした。人間の身でありながらオリンポスの饗宴に席が用意されるほどゼウスに好かれていました。天上の神酒ネクタルや神々の食べ物アンブロシアまで供され、不死の身体まで手に入れていたのです。まさに分不相応という感じですね。その言葉の通り、まさしく分を忘れたタンタロスはバランスを崩し始めます。彼は、神々を招いた饗宴で、神々を試すために息子のペロプスを殺し、その肉で作られた料理を神々に食べさせるという暴挙に出ます。また、オリンポスの饗宴から食べ物を盗んで友人に分け与えたりといった傲慢さを見せるようになります。当然のことながら、タンタロスは激怒した神にタルタロスという地獄に送られます。罰として、沼の上で枝に覆われた果樹に吊されるのですが、喉の渇きを癒そうと満ちてきた沼の水に口をつけようとすると、瞬く間に水が引いて届かなくなってしまいます。また果物を食べようとして手を触れようとすると風が吹いてきて枝を舞い上げてしまい取ることができません。この苦しみから逃れるには死しかありません。人間にとって「死」とは救いという側面もあるのです。しかし、神酒ネクタルを飲み不死の肉体を持つタンタロスに永遠に死は訪れません。彼は永劫の飢えと渇きに苛まれるのです。

ギリシャ神話における刑罰は人間の原初的な欲望や精神に直接訴えかけ、人間の生と存在の根源に問いかけるようなところがあります。

そんな罪と罰の中で、私にとって一際印象深い罰を受けている人間としてイクシオンという人物がいます。

彼が受けたのは「永劫に続くめまい」という罰だったのです。

 

平衡の不在という罰

イクシオンは欲の深い男で、そのため義理の父親を殺して「人類最初の親族殺し」となりました。しかしゼウスは他の神々の反対を押し切り、1度は彼を許します。ギリシャ神話で永劫の罰を受ける人々は1度目の罪は許されていることが多いのも特徴の一つでしょう。シーシュポスも初回の罪には死こそ与えられましたが、永劫の罪ではありませんでした。親族殺しの罪を赦されたイクシオンは天界の饗宴にも招かれます。しかし、そこで飲みすぎて酩酊した彼は、もともと好色で不埒であったので、なんとゼウスの妻であるへーラーに迫ります。しかし、人間の聖も俗も嚼 み分けていたゼウスはそのことを予期していました。あらかじめ雲で作ったへーラーの替え玉ネペレーを用意していたのです。替え玉相手にことを為したイクシオンですが、当然ゼウスの怒りに触れタルタロスの奈落に落とされます。そこで彼が受けた罰とは、「火の車輪に蛇でくくりつけられ永劫に回り続ける」というものでした。タンタロスの受けた罰は「決して満たされることのない飢えと渇き」、シーシュポスが与えられた罰は「果てなき徒労」です。これはギリシャ神話にはままある罰です。この罰の特徴は一瞬であるとはいえ、そしてすぐさま失望に変わるとしても、労働の達成に対する期待と解放があります。無意味な作業でも、その瞬間、瞬間を生ききることはできるのです。しかし、イクシオンの罰は「永劫に続くめまい」です。一瞬たりとも、行動も解放も達成感も与えられることなく、不快と不安に苛まれ続けるのです。強欲で情状を酌量する余地もない身勝手な理由で親族を殺し、あまつさえ最高神の妻を陵辱しようとした人物の罰が「めまい」なのです。

平衡感覚が奪われるということは人に根源的な不安を与えるものです。めまいは人間の情緒と密接な関係を持ち、その不安はあらゆる期待とそれにまつわる可能性を奪います。まさに生を肯定することができなくなるのです。そのような罰を受けた私は絶望的な気分になることもしばしばでした。

しかし、そんな私の「めまい人生」に転機が訪れます。

ある日のこと、盆明けの暑い日でしたが、昼の休診時間、冷房が効いて居心地の好い父の整骨院の待合室で夏休みの宿題をしていたところ、青白い顔をして、今にも倒れそうな面持ちの女性が訪れました。どこに行ってもなかなか改善しないというひどい肩こりの持ち主で、父の評判を聞いて予約をしたということでした。午後の最初の患者さんで、待合室が混み合うこと

もなかったものですから、そのまま宿題を続けていると、問診の声が聞こえてきました。

「ひどい時にはめまいもするんです」

めまいという単語に敏感な私は聞き耳を立てました。その問診で分かったことは、彼女は貧血にも悩んでいること、低血圧で朝起きるのが辛いということ、人からたまに姿勢が悪いと指摘されることなどでした。私が特に気になったのは、肩こりがひどい時のめまいは「ぐるぐるりそうなこともあるがフワフワと足が沈み込むようなものが多い」ということでした。実は私のめまいもそういうものが多かったからです。最近でこそ肩こりに悩む小学生も多いですが、昭和の子供である私は肩こりとは無縁で、私のめまいとは原因が違うのだろうとも思えました。ただし「貧血」という言葉に引っかかったのです。私の母は貧血持ちでした。特に月経時には私と似たようなめまいを訴えることもあったのです。姿勢に関しても、子供の頃の私は華奢で筋肉のつき方は女の子のようで、身体も柔らかくクニャクニャして落ち着きのない子供でしたから、あまり自慢できるようなものではなかったでしょう。「姿勢が悪いと頭の血の巡りが悪くてバカになるぞ」と白髪の教頭先生に度々注意されていたこともあり、何か関係があるのではないかと思ったのです。今思えば、姿勢のことを口うるさく言う年配の先生達はありがたい存在であったと思います。背中に竹の定規を差し込まれて指導されたこともありました。現在ではそのような指導はあまりされないようですが、子供の頃の姿勢教育というのは、実は人生にも関わることです。

なにがさて、父の治療の後、その女性は肩こりが楽になり、来た時とは打って変わったすっきりとした笑顔で帰って行きました。何をしたのかと父に聞いたところ、貧血があるから揉んだりせずに、首の付け根の「天柱」と「風池」というツボを治療したのだと教えてくれました。そして、彼女の肩こりは頚の骨に原因があるということを教えてくれました。もっと細かく話を聞きたいと思いましたが、それ以上のことは忙しい父に聞くのもなぜか申し訳なく感じ、自分で調べたいと思った私は父の書棚から分厚い3冊組の解剖学の教科書を見つけて、人の背骨について調べ始めたのでした。人間の身体については学研の児童向けの本などで、主要な内臓については少しばかりの知識を得ていました。いや、むしろどちらかといえば好きでしたので、何回も読み返し、その本に書いてあることは丸々暗記してしまうくらいでしたが、その〝構造の意味を考える〟ということはありませんでした。そこでの知識は「汗はなぜ出るのか」「おしっこはどうやってできるのか」「便の色はなぜ黄色なのか」「食べた物は胃や小腸でどのように処理されるのか」といった雑学的で、生理学的なものが主でした。しかし、内臓の生理学的なことでも、そこから敷衍して、それらを可能にしている「細胞の構造」や、「組織の構造」といったものを考えることはできるわけですが、そこまで細かいことは流石に児童用の本には書いてはありません。

また、内臓の位置などについて〝なぜそうなっているのか〟までは、自分でも全く考えたことがなかったのです。そういう視点自体が当時の児童向けの本にはなかったと思います。それなりの大人向けの書物にもいまだに少ないのではないでしょうか。こういった次第ですから、とりわけ骨格に関しては、「一部の骨髄が血を作っている」などの話以外はあまり興味が湧かずにいたのです。この夏の日の出来事は、〝構造の意味を考える〟という発想が私の中で生まれた最初の瞬間だったかもしれません。

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