解説付き週刊連載「身体構造力〜日本人のからだと思考の関係論〜」❶ 扉と前書き
2025/08/12
刊行によせて
「コロナに罹らないためなら死んでもいいみたいだ」という皮肉を言ったら不謹慎の謗りを免
れないだろう。しかし、そんな倒錯した感覚が社会を覆っているように私には見える。
多くの人々が「どこかおかしい」と感じながらも、その冷静な思惑はすでに醸成されてし
まった空気にかき消されていく。
本書の初回校正中である令和二年四月七日に「新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づ
く緊急事態宣言」が日本政府より発令されました。「緊急事態宣言」とは物々しい名称ですが、
結局のところ国民の自発的自粛を懇願するに留まらざるを得ないもので、その根底にある憲法
の不備、関係法制の不備といった戦後日本の不作為が浮き彫りとなったと感じざるを得ません。
そしてその不作為は社会の混乱に一層の拍車をかけているのです。
医療の混乱、整体業界や患者の混乱と今回の騒動は同根異病ではないか。
本書でも再三触れている日本人の宿痾(しゅくあ) が全く同じ形で繰り返されていることに深い感慨を覚えます。
そこにはメディアによって根拠もなく名付けられた不安に怯え、現実の身体を喪失してしまう大衆が常にいるのです。
本書のタイトルである「身体構造力」とは、「身体自体が持つ構造の力」と同時に、私たちの意志によって「身体を構造する力」という二つの意味が込められた造語です。
この令和初の世界的恐慌の最中に本書を刊行する巡り合わせに、深い意味を感じています。
事態の早期終息を願うのはもちろん、この騒動が人間が生きるということを今一度捉え返す
契機とならんことを切に祈りつつ。
令和二年八月
はじめに ~私たちが忘れがちな当たり前のこと~
詩は行間を読め、でも字も読め
子供の頃、詩を読む授業で言われる言葉に「行間を読め」というものがありました。真に詩
を味わうこととは、字面だけを追うのではない、その文字が指し示すものを解釈して、文字に
表れていない作者の気持ちを読み取るものだといった意味でしょう。
その際、大抵の教師はこう続けます。それを可能にするのは、読み手の想像力なんだ、だか
ら想像力を膨らませるのが大切なんだ、と。
確かに、時に一編の詩には人生を変えてしまうほどの力があります。
一編の詩を、それぞれの人生の中に着地させることができた時、初めて詩は詩として読まれたということです。
そういった意味で、これはとても上手な言葉だと思います。
しかし、想像力が高度に発達してしまった人間という動物は、時に変な錯覚に陥ることがあ
ります。
この「行間を読め」だけが一人歩きをしてしまうのです。
その裏には「行間を読むのが高級で、その土台たる文字は単なる記号の羅列に過ぎない」と、文字を一段低いところに置
きがちになる心性が働いています。
そして、詩というものが存在するために欠かせないはずの文字を忘れてしまうという不思議なことが起こります。
詩の心が行間だとすれば、文字は身体です。
詩にはその言葉の選び方であったり、韻律であったりといった文字の妙もあるわけです。
そこには文字自身の力学があります。
そもそも詩とは声に出して読むことで、その真価が発揮されるものでもあります。
詩を読みたいならば、当然行間を読む前に字も読まなければなりません。
文字の力学を存分に堪能してこそ、行間があるのです。
「そんなの当たり前じゃないか」と仰る声が聞こえます。
ただ、当たり前のことだから誰も指摘しない、当たり前すぎるから考えない、ということはよくあります。
ここにも人間というものが陥りやすい錯誤があります。
これは、認知能力が発達しすぎた人間という動物には当然のように起こり得るものなのかもしれませんが、その錯誤の理由を考える上で、その錯誤をさらに後押しするものとしての私たちが無自覚に乗っかっている世界観=パラダイムというものを避けて通ることはできません。
私たちの裡うちに潜むその思考の枠組みと特徴を、多少なりとも相対化しておくことが、現代人には必要なのです。
一つの詩に出会うには、まず文字を存分に味わわなければならないはずですが「当たり前す
ぎて」意識されることがない。
頭でっかちになった人間は、詩の身体たる文字のことはさておき、最初から行間ばかりを求めてしまう心性に覆われます。
そうこうしているうちに、この心性は妙な解釈合戦を生み出してしまいます。
それも妥当な、通り一遍の解釈では想像力が足りないと、もはや文字の論理などそっちのけで、なるべく突飛な解釈を求め続けるのです。
これは「今、心の時代」などというキャッチフレーズに浮かれてどんどん身体を忘れ続けるという現代の状況にも似ています。
しかし文字を忘れ続けた解釈は中空に浮かんで、どこかに辿り着くことはありません。
そして帰る場所=身体も最初から喪っているのです。
現代の医療の枠組みでは身体構造、とりわけ骨格と筋肉の構造があまりにも軽視されています。
骨格は「構造の力」を持っています。その構造の力と機能があることで、人間は初めて二
足で歩行することができるのです。その「構造の力」を十全に活かせない状態は、本来ならば
必要のない筋肉の緊張や拘縮を呼び、様々な愁訴を引き起こします。
骨格の構造はその人間の思考から性格形成、脳や内臓の働きにまで多大な影響を及ぼします
が、病院などではEBM(根拠に基づく医療、Evidence Based Medicine)や健康保険制度な
どに過度に縛られており、その制度が持つ原理的な問題として、画像や血液の数値に表れない
症状に対しては打つ手がありません。また、部分的な関節の器質の変化や、症状だけを観る結
果検証と対症的な処置しか考えることができなくなっているのです。
これは少し考えれば当たり前の話で、広く公平に医療を施すということはマニュアル化する
ことだからです。
症状を根本的に引き起こしていると思われる骨格構造の歪みは、年齢、人種、性別、仕事、趣味嗜好、性格、生活習慣、そして現在だけではなく過去の行状が絡み合っているために、その治療法に関して数値化も平均化も均質化もできません。
それはもはやマニュアルの手には負えないのです。とはいえ、対症療法としてのマニュアルはまだ有効かもしれませんが、その場合の問題点として、思考停止に陥りやすいということがあります。
医師も患者も目の前にある身体を忘れてしまうのです。
その結果、構造と痛みに関して、医師も患者も原因と結果を逆さまに理解したまま人生を過ごすことになっていることも、ままあるのです。
そんなマニュアル化されたコンビニ医療に失望し「自分の身体の状態をじっくりと知りた
い」「身体の歪みを取りたい」という全人的な治療かつ構造的なアプローチを求める人々は街
の整骨院、整体院、鍼灸院などに救いを求めることになるわけです。
近年のこの業界は、先に述べた、現代医療の陥穽の存在を証明するかのような隆盛ぶりです。
ある意味で医科ほどは公的制度に縛られていない分、患者一人一人に対しての個別具体的な構造の特性を考えた真のホスピタリティを成し得る側面があるからでしょう。
皆さんもそれを期待して足を運ぶのであろうと思います。しかし、治療院の数が増えて、その業界が大きくなっていくにつれて、やはりシステム化とマニュアル化という現象は避けられない問題として出てきてしまいます。
本来、構造を整えるという素朴なだけに一番重要な根本的なこと、そして、素朴であるがゆえに高度な医療から取りこぼされてしまいがちな構造の歪みを受け止めるはずだった場所も、結局、切り分けられた対症療法的なテクニックに拘泥したりするようになってしまっていたり、教科書やマニュアルから一歩も出ない施術に終始していたりします。
コンビニ医療を呪いながらコンビニ整体と化している。
それだけならまだしも、霊的なものであったり、人が理解のしようがない不可知なものを謳ったりして患者を集めようとするところも増えてきました。
また、制度に縛られないということは、反面、経済的に守られていないということも意味します。
つまり「商売」が優先してしまうということです。
そこでは「患者」は単なる「お客様」であり、「お客様」が望むことを言い、望むことだけをするということになります。
それはどこかで治療家の節度や矜持(きょうじ) を失わせる要因となるでしょう。
そして、この場所においても、いつのまにか身体とその構造が忘れられていくという錯誤が、違った形ではあるものの繰り返されるのです。
人間には脳や心ばかりにアプローチをかけたがる心の癖のようなものがあるのかもしれません。
文字のことを忘れて行間ばかりを読みたがる心の癖とはどこから来るのでしょう。
実は私たちの持っている世界観がそうさせるのです。
私は人間の想像力を否定しているのではありません。これはバランスの問題なのです。
この世には絶対的に正しいものや絶対的に悪いものというのは恐らく存在しません。
あるのはバランスがいいか、悪いかだけなのではないかと思います。
イエス·キリストは「人はパンのみにて生くるにあらず」と言いましたが、人は生きていく上で神の言葉を求めることもあるでしょうが、まずはパンを食べなければならない。
曰く「詩は行間を読め、でも字も読め」なのです。
この本は、現代の整体をも含んだ広い意味での医療における、「私たちが忘れがちな当たり前のこと」について書いてあります。
この問題は、私たちの世界、社会全体を覆うものなので、身体の構造のことはもちろん、私たちの世界観との関わり、思想や文化、そして現在の混沌の原因となる法律のことまで、様々なお話をしなくてはならなくなりました。
読者の皆さんの知的冒険の一助になれば幸いです。
※各章の扉の言葉はニーチェの『ツァラトゥストラ』(手塚富雄訳、中公文庫)を用いました。
以上、引用終わり。
入稿原稿の印刷前最終校正を行っていた際に編集部にお願いして、半ば強引に扉文を加えることにした。コロナ騒動にどうしようもない違和感を感じていたからである。ただ、この時点でも文章の運びにおいて注意を受けた。
1行目の「コロナに罹らないためなら死んでもいい」がひっかかったようだ。「実際に人が亡くなっていますから」などと言われ表現の変更を求められた。
「みたいだ」をつけたり、「不謹慎の謗りを免れない」など言い訳めいた文章になっているのはそのせいである。
前書きは非常に難しかった。前書きで購入を決める人が多いと聞いていたからだ。今、読んでみると少し長い気もする。
次回は目次とその小解説の回になります。
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